常盤御前 キャリアアップの人生
常盤は1138年に生まれた。近衛天皇の中宮、藤原呈子の雑仕女から源義朝の側室となる。藤原呈子は美福門院と藤原忠通の養女で、源義朝は常盤を側室に迎えることによって美福門院グループに組み込まれた。保元の乱では、義朝は美福門院・平忠通側の武士として後白河天皇方で活躍する。平治の乱では、藤原信頼配下の主力兵力であったが、二条親政派の巻き返しによって敗北、義朝は東国への逃走中に生命を落とす。
貴族たちは平治の乱における義朝は信頼の指示に従っただけであると認識していたので、嫡子の頼朝を助命し、常盤と三人の子どもを保護した。悲劇の女性という常盤のイメージは、後世の軍記物語が作り出したフィクションらしい。
常盤は藤原長成(一条長成)の後室として再婚して一条能成を生む。一条長成は正四位の中級貴族で、従四位の軍事貴族源義朝より官位は上だから、常盤は良い再婚先を世話してもらえたといえる。今若・乙若・牛若の三兄弟も藤原長成の縁で格式の高い寺院に入っている。
源義経(牛若)は一条長成の養子として鞍馬寺に入ったが、何故か仏門を嫌い奥州平泉へ移る。当時、奥州の覇者藤原秀衡の顧問に藤原基成がいた。基成は信頼の兄弟で、信頼が平治の乱で敗北したため奥州平泉に移っていた。藤原長成と藤原基成は縁戚があり、義経はこのルートで奥州平泉に迎えられたと考えられている。
後に義経は平泉を出て鎌倉に向かい、兄頼朝の傘下に入って平家を滅ぼす。義経が京都に来ると義弟の一条能成は義経に協力するが、義経の失脚にともない能成は危機に陥る。母の常盤も捜索を受けており、常盤の消息はここで絶える。後日、能成は一条家を継ぎ従三位に叙せられているから、常盤も能成の母、一条家の室として幸せな晩年をおくったのであろう。