弁天様のご神紋 安芸の厳島神社と江の島の弁天様
私の育った町の夏祭りは弁天様の灯篭流し。弁天様の大きな提灯には「三つ盛り二重亀甲に剣花菱」の紋が。剣花菱?三つ鱗ではないのか?と首をかしげる人は、日本の中世史とその町の地域史の両方に精通している人である。
この町は中世の皇室領矢野荘。承久の乱で朝廷が敗北し、相模の海老名一族が地頭として赴任してきた。海老名は荘園鎮守として鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請するとともに、海辺の小さな島に江の島弁天の祠を建てた。弁天様はインドの水の女神、海上神の市杵嶋姫命と習合して弁天社=厳島神社となった。歴史を紐解けば、私たちの町の弁天様のルーツは江の島なのである。
ときは移り、大正年間、鈴木商店がこの町の小さな造船所を買収して拡張した。造船所は長崎や呉・因島からやってきた技術者や工員のために社宅街を作った。社宅の人たちは弁天様の社殿を建てて社宅の鎮守様として祭り、安芸の宮島の灯篭流しを真似て夏祭りを楽しんだ。灯篭と提灯には剣花菱の御神紋。
剣花菱は安芸の厳島神社の御神紋、平家の守護神の象徴である。江の島の弁天様は北条時政が信仰していたが、源氏の鎌倉幕府が平家の厳島神社に対抗して拡張し、琵琶湖の竹生島・宮島・江の島が日本三大弁天になった。
江の島の御神紋は北条時政と海蛇のエピソードによる三つ鱗。私たちの町の弁天様も三つ鱗の御神紋であったはず。古老は「江の島から来られた弁天様の御神紋が宮島の剣花菱になってしまった」と嘆く。とはいえ、社宅の鎮守様になってまもなく一世紀。剣花菱は弁天様の紋として定着している。有為転変は世の習いとはいえ「私たちの町の弁天様は江の島生まれ」ということくらいは覚えていて欲しいものではあるのだが。