浅野陣屋保存プロジェクト

旗本浅野家若狭野陣屋の紹介

浅野陣屋を保存し皇室領矢野荘でエコツーリズムをめざすプロジェクト

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浅野赤穂藩の分家、旗本浅野家は若狭野陣屋を構え幕末まで統治しました。若狭野陣屋は敷地がすべて残り、札座という役所が現存しています。しかし、歴史的価値を認められることなく札座は解体の危機に瀕しています。

 

1 札座保存プロジェクトと旗本浅野家領若狭野 5分

  

  

2 若狭野陣屋全景 5分

  

  

  

3 陣屋北部 御殿屋敷跡 5分

  

  

  

4 陣屋南部 札座の歴史と現状 10分

  

  

  

  

  

  

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旗本浅野家と赤穂藩

 

浅野赤穂藩は歌舞伎の忠臣蔵で知られています。旗本浅野家は赤穂藩の分家で、赤穂郡の若狭野に陣屋を構えていました。

 

初代赤穂藩主、浅野長直は息子と娘がおり、娘は大石家に嫁いでいます。長直は娘の生んだ孫を養子として分家を立てることを考えました。こうして、浅野赤穂藩は、赤穂の本家と若狭野・家原の二分家で構成されるようになります。

 

赤穂藩は他藩と境界を接することのない若狭野を浅野長恒に与えました。長恒の幼名長三郎隼人にちなみ、浅野隼人家と呼びます。若狭野浅野家は三千石で、このクラスの旗本を大身旗本といいます。彼らは江戸に住み、幕府の要職に就きました。当主が所領に戻ることは稀で、陣屋に家臣をおいて統治させました。

 

元禄14年(1701)、江戸城で浅野内匠頭長矩が吉良上野介に刃傷に及ぶ元禄赤穂事件が起こります。赤穂藩は改易され、元禄15年(1702)には、生家大石家の大石良雄が吉良邸に討ち入ります。しかし、浅野長恒は謹慎するものの許されて、若狭野浅野家は旗本として幕末まで続きました。

 

 

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 文政年間に建築された札座

 

浅野赤穂藩時代、本家が若狭野も含めて統治し、分家の浅野長恒に収益を交付していました。若狭野陣屋は長屋があるだけの小規模なものでよかったのです。しかし、赤穂藩が断絶したため、浅野家は若狭野陣屋を移転拡張します。江戸時代も後半に入ると、各地で経済の発展にともなう家政改革が試みられました。浅野家も在地代官を採用し、大坂天王寺屋を札元とする藩札発行などに取り組みます。これに応じて、若狭野陣屋に札座が建築されました。

 

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 浅野陣屋御殿屋敷跡

 

浅野陣屋の中心部には御殿屋敷と家臣が使う屋敷がありました。明治初年、当主の浅野長発や家臣団が若狭野に土着し、御殿屋敷を増築、家老屋敷を新築します。しかし、明治30年代、浅野家の事業が破綻し札座以外の建物は売却されました。御殿屋敷跡は地区に寄贈されて神社や薬師堂が建っています。

 

2006年、浅野赤穂藩上屋敷から若狭野浅野家が受け継いだ文書が相生市内で発見され、龍野歴史文化資料館と関西大学に所蔵されています。この文書は、浅野家の成立から忠臣蔵を経て幕末まで、一つの武家の推移をたどることができる貴重な資料です。また、旗本の家政改革という新しい研究分野を切り開くフィールドになっています。

 

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 浅野陣屋全景

 

浅野隼人家文書のなかに陣屋の絵図があり、郷土史の先達小林楓村・金田正男両氏の研究と照合しますと若狭野陣屋の変遷を辿ることができます。城郭が郷土の象徴として保存されることが多かったのに比べ、小規模な陣屋は開発によって消滅したものも少なくありません。若狭野陣屋は敷地がそのまま残っているうえ、札座という役所が現存しています。

 

文書というソフト、陣屋というハードから旗本浅野家の興亡をたどることができるという点で、若狭野陣屋の価値は高く評価されるべきものです。ところが、これまで若狭野陣屋の歴史的価値・文化的価値は理解されることなく、老朽化の進んだ札座は解体の危機に瀕しています。

 

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