日本史オンライン講座

高校の社会科教師を退職して日本史を勉強しなおそうと思い、秦野裕介先生を講師に迎えて、日本史オンライン講座を作りました。木曜夜にZOOMでライブを発信し、週末に録画を公開しています。
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河内源氏の系図

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清和源氏のうち、源頼信に始まる河内源氏の系図です。鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏がこの系統から出ますから、高校日本史では清和源氏というと河内源氏を指すようになっています。源頼朝が登場するまでの河内源氏の頂点は、源頼義です。官職は正四位伊予守。正四位は軍事貴族が到達できる最高の官位で、受領の最上位は播磨守と伊予守です。河内源氏で正四位伊予守まで昇進したのは源頼義だけで、源義家から河内源氏は下り坂になります。

源義家が高く評価されるようになったのは、室町時代、足利氏の祖が源義家とされていたからです。源頼朝は義家ではなく頼義の故実にならっています。

 

河内源氏03 源頼信の系図.jpg

 

河内源氏が関東に進出するきっかけは平忠常の乱です。1028年、桓武平氏良文流の平忠常が安房国府を襲撃しました。朝廷は桓武平氏の嫡流である平直方を追討使として派遣しますが、平直方と反乱の鎮定に失敗します。そこで朝廷は平直方を解任し、源頼信・頼義父子を関東に派遣しました。源頼信は平忠常の乱の鎮圧に成功します。

平直方は源頼義を娘婿に迎えることにしました。平直方は桓武平氏の地盤(郎党や鎌倉などの拠点)を源頼義に譲り、孫の源義家が継承しました。源義家は、父が清和源氏、母が桓武平氏のハイブリッドです。河内源氏が桓武平氏を吸収したので、鎌倉幕府の御家人には平氏系が大勢います。ちなみに、平清盛は桓武平氏ですが、坂東平氏ではなく伊勢平氏です。

 

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1051年、源頼義は陸奥守になり、義家とともに陸奥に赴任しました。頼義は鎮守府将軍を兼ね、安倍頼時と前九年の役の戦いを始めました。安倍勢は善戦しましたが、源頼義は清原氏を味方に引き入れ、前九年の役に勝利します。1063年、頼義は陸奥守から伊予守に昇進しました。

 

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源頼義と平直方の娘との間には三人の男子が生まれました。元服した神社にちなみ八幡太郎義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光と呼ばれます。当時の清和源氏と桓武平氏の官職を比べますと、清和源氏は摂津源氏も河内源氏も正四位、桓武平氏は嫡流が河内源氏に統合され、伊勢平氏は従四位です。清和源氏の方が桓武平氏より優勢でした。

 

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1083年、源義家は陸奥守として赴任します。陸奥では、前九年の役で源頼義・義家に協力した清原氏が勢力を誇っていましたが、清原清衡・家衡兄弟の対立が生じていました。義家は清原氏の対立に介入して清原清衡を支援し、後三年の役が起こります。後三年の役は、義家・清衡連合が勝利しましたが、朝廷は後三年の役を私戦として戦費を認めませんでした。義家は部下への恩賞を私費で支払わざるを得なかったうえに、受領としての職務遂行認定にとまどります。その結果、義家のキャリアは陸奥守で留まり、伊予守に昇進することはできませんでした。

 

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源義家が陸奥から京都に帰ってきた頃から、義家の周囲には不穏な出来事が続くようになります。弟の源義綱は兄と不仲でした。義綱が関白藤原師通を主人としたため、義家は摂関家だけでなく白河院にも接近します。しかし、白河院は桓武平氏を育成して河内源氏と競合させようとしました。

さらに嫡男の源義親が問題を起こします。義親は対馬守になりましたが九州で略奪を働き、隠岐に流罪になるも出雲で目代を殺害しました。義家は義親の非行に悩みながら亡くなりました。義親追討には平正盛が派遣され、伊勢平氏と河内源氏の関係が逆転します。河内源氏を継承した源義忠は平正盛の娘を妻に迎え、桓武平氏に接近しようとしましたが河内源氏の人々から批判を受けしました。そして、1109年、源義忠は暗殺されてしまいます。暗殺犯として叔父の源義綱が流罪になりますが、後日、実は叔父の源義光が黒幕であったことが判明しました。

源義忠暗殺により、源義親の子、源為義が14才で河内源氏の棟梁になります。河内源氏の権勢は地に落ちており、源為義はその挽回を図ります。が、為義自身の行動にも問題があり、鳥羽院から忌避されるようになります。源為義は摂関家に接近し、関東に源義朝を派遣するなど河内源氏の再建に努めることになります。

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2021.09.26 Sunday