日本史オンライン講座

高校の社会科教師を退職して日本史を勉強しなおそうと思い、秦野裕介先生を講師に迎えて、日本史オンライン講座を作りました。木曜夜にZOOMでライブを発信し、週末に録画を公開しています。
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源頼朝の系図

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源頼朝が治承寿永の内乱を勝ち抜き鎌倉幕府を開いたため、源為義・源義朝・源頼朝の流れが河内源氏、さらには清和源氏であるということになりました。しかし、それは、結果論であって、そもそも源為義が河内源氏の棟梁と認められていたのでしょうか。

源為義が14才で河内源氏の棟梁になったとき、源義親が討伐され、源義忠が暗殺されるなど河内源氏は混乱の極みにありました。棟梁の座をめぐって、為義の伯父義国、異母兄弟の義信、先代の棟梁義忠の子で為義の従兄弟義高が為義と争いました。義国・義信・義高は官位では為義より上位まで昇進しており、為義が河内源氏を統率できる状況になかったことがうかがえます。

源為義と平忠盛は同い年です。源為義が従五位検非違使のまま受領になれなかったのに比べて、平忠盛は従五位検非違使から各地の受領を務めて正四位播磨守まで昇進しています。

 

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この系図の数字は、源氏や平氏の人たちが誰に仕えていたかを示しています。当時は院政の時代で、朝廷の最高権力者は院でした。源為義と平忠盛は、白河院・鳥羽院に仕えていましたが、為義や為義の郎党の狼藉行為は鳥羽院の怒りに触れます。院の近臣として昇進した平忠盛と院に忌避された源為義、この違いが従五位と正四位という格差につながりました。源為義は摂関家に仕え、摂関家の荘官や武力になります。

 

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源為義は庶長子の義朝を東国に下向させました。為義の嫡子は次男の義賢でしたが、1140年、義賢は事件に関連して廃嫡され、四男の頼賢が嫡子になります。源義朝が関東で勢力を拡大すると、為義と義朝が対立するようになり、義朝は鳥羽院に接近して下野守に補任されました。1153年、為義は義賢を関東に送り、義朝に対抗させようとします。為義の子供たちは、為義に従う義賢・義広・頼賢等と、為義と対立する義朝に分かれました。そういうなかで、1155年、義朝の庶長子義平が義賢を殺害し、河内源氏の分裂が決定的になりました。

為義の三男義広は常陸国に志田荘を持ち、常陸介平頼盛を通じて、志田荘の本家を美福門院、領家を頼盛の母である藤原宗子(池禅尼)にしていました。摂関家に仕える為義・鳥羽院に仕える義朝・反義朝で鳥羽院に接近した義広。彼らの主従関係が保元の乱での行動につながっていきます。

 

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1156年、保元の乱が起こりました。鳥羽院の皇后美福門院と関白藤原忠通を中心とする後白河天皇方、崇徳上皇と藤原頼長を中心とする崇徳上皇方の権力闘争は、ついに武力衝突に至ります。河内源氏は、鳥羽院に仕えていた義朝と義康が後白河天皇方、摂関家(藤原頼長)に仕えていた為義と頼賢が崇徳上皇方に分かれました。平氏は藤原宗子の決断で、平清盛・平頼盛が後白河天皇方に加わります。戦いは兵力に優る後白河天皇方が勝利しました。後白河天皇方の中心となって戦った義朝は河内源氏の掌握に成功します。

 

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保元の乱の後、後白河院の近臣である信西が政権の中心になりました。信西に反発する藤原信頼らは源義朝の武力を使ったクーデターを狙い、1160年に平治の乱が起こります。平治の乱の第一幕で信西は殺害され、源義朝は播磨守、頼朝は右兵衛佐に任官しました。しかし、信頼に反発する三条公教は平清盛を説得し、二条天皇を内裏から六波羅に移します。摂津源氏の源光保や源頼政は二条天皇に従いました。信頼・義朝は官軍から賊軍に転落、義朝は六波羅を攻撃しますが平氏軍に敗れます。義朝は東国に逃走する途中、尾張で殺害されました。

平治の乱の後、源義朝の子供たちの処遇が問題になりました。頼朝の母由良御前の実家熱田大神宮家は後白河院や上西門院との関係が深かったこともあり、高度な政治判断で頼朝以下の助命が決まります。平治の乱の本質は藤原信頼ら貴族同士の権力闘争であり、源義朝は武力として行使されただけという認識もありました。

頼朝は伊豆、同母弟の希義は土佐に流罪、常盤御前は保護されたうえで貴族の一条長成と再婚、今若・乙若・牛若はしかるべき寺院に入りました。

 

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伊豆に配流された源頼朝は監視下におかれますが、縁者からの支援が続きます。頼朝の乳母であった比企尼は夫とともに関東に下り、頼朝の生活を支えました。比企尼の娘たちの夫は、後に鎌倉幕府の御家人になります。頼朝の妹坊門姫は一条能保に嫁ぎ、頼朝の乳母の縁者三好康信は京都の下級貴族でした。彼らや母方の熱田大臣寺家から頼朝への経済的支援や情報の提供があり、頼朝は優雅な流人生活をおくり、北条政子と結婚します。

 

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1180年、以仁王が挙兵しました。源頼朝は静観していましたが、以仁王の令旨に関する捜索が始まったため挙兵を決意します。弟たちのうち、土佐の希義は討ち取られましたが、範頼・全成・義経らは頼朝の配下に入ります。木曽義仲は頼朝との競合を避けて北陸へ回り、関東で頼朝に対抗した叔父の義広は1183年の野木宮合戦で頼朝に敗れた後、義仲に合流しました。

 

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源頼朝は平家を壇ノ浦に葬り、鎌倉幕府を開いて、1192年に征夷大将軍に任ぜられました。 栄華を極めたかのように見える頼朝ですが、子孫繁栄とはいきませんでした。

頼朝と政子には二男二女が生まれています。頼朝は大姫と乙姫を後鳥羽に入内させようとしますが実現しませんでした。頼朝が没すると頼家が二代将軍になりますが、比企能員の変が起こり、頼家は修善寺で暗殺されます。1219年、三代将軍となった実朝は、頼家の子公卿に鶴岡八幡宮で暗殺されて公暁も生命を落とし、翌年、頼家の庶子禅暁が誅殺されました。

頼朝・政子の子孫は鞠子(竹御所)だけが残ります。鞠子は四代将軍九条頼経を婿に迎えましたが、1234年、死産して自らも亡くなってしまいます。鞠子の死で頼朝の血統が途絶え、御家人たちに衝撃が走りました。

頼朝には政子以外の女性との間に生まれた男子がいました。この人は、早くから仁和寺に入り貞暁と名乗っています。後に高野山に移り、頼朝や兄弟たちの菩提を弔って人生を終えました。

 

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 源義朝の系図を作ると頼朝の系統は鞠子をもって途絶えます。一方、頼朝の同母妹坊門姫の子孫は京都の公家社会に続き、四代将軍九条頼経は坊門姫の系統に現れます。

意外なことに、義朝と常盤御前の間に生まれた子供の子孫に天皇がいます。阿野全成(今若)は頼朝に信頼されて鎌倉幕府の重臣になりました。その娘の子孫に、後醍醐天皇の寵姫阿野廉子がおり、二人の間に後村上天皇が誕生しています。

 

河内源氏の系図は以上で終わります。

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2021.09.26 Sunday