日本史オンライン講座

高校の社会科教師を退職して日本史を勉強しなおそうと思い、秦野裕介先生を講師に迎えて、日本史オンライン講座を作りました。木曜夜にZOOMでライブを発信し、週末に録画を公開しています。
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摂関家の系図Ⅰ

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清和天皇は文徳天皇の第四皇子です。父は嵯峨天皇の男系の孫である文徳天皇、母は女系の孫である藤原明子。明子の母、源潔姫は嵯峨天皇の皇女で藤原良房の妻になりました。天智・天武の時代から皇女が臣下に嫁ぐことはありませんでした。嵯峨天皇の皇女を妻とした藤原良房は潔姫以外に妻を持つことはなく、二人の間に唯一誕生したのが明子です。文徳天皇と明子の間に生まれた文徳天皇は嵯峨の皇統と藤原良房にとって特別な存在でした。なので、文徳天皇は生後8か月で皇太子に立てられています。

また、藤原氏にとっては、仁明天皇・藤原順子の間に生まれた文徳天皇に続き、文徳天皇と藤原明子の間に生まれた清和天皇は藤原氏が外戚の地位を確立していくための重要なステップでした。ところが、858年、皇太子が9才のときに文徳天皇が崩御します。皇太子が践祚すると幼い天皇になります。それまで、天皇は政治的な判断ができる成人でした。天皇後継予定者が幼いとき、祖母や母などが繋ぎの皇位に就いています。持統天皇や元明天皇などの女帝です。

しかし、858年、朝廷は重大な決断をします。9才の清和天皇を践祚させることにしたのです。幼帝の出現は、幼帝に替わって統治にあたる摂政を必須とするとともに、繋ぎの女帝を不要にしました。また、父帝から子の皇太子への皇位継承は実現する可能性が高まり、皇位継承は安定します。

清和天皇は父方の祖母藤原順子が抱いて内裏に入り、母方の祖父藤原良房が政治を補佐することになります。摂政という役職はまだ定まっていなかったので、良房は太政大臣で政務をとりました。こうして、幼い天皇と同居する女性と補佐する男性(国母と摂政)が大きな力を持つ摂関政治が始まります。摂関政治では、藤原氏と他氏の争いとともに藤原氏内部で抗争が続きました。866年の応天門の変では、藤原良房と藤原良相・順子の兄弟が争い、藤原良房が勝利します。そして、この事件の後、摂政という役職が名実ともに確立しました。

 

摂関政治02 藤原基経.jpg

 

藤原良房は潔姫以外の妻を持たず、子供は明子一人でした。そこで、良房は甥の基経と姪の高子を養子にして、基房を後継者、高子を清和天皇に入内させます。876年、清和天皇が崩御し、陽成天皇が践祚しました。陽成天皇は8才でしたから、外戚の基経と国母の高子が影響力を増します。ところが、基経と高子は兄妹でありながら仲が良くありませんでした。基経は外戚の地位を放棄してでも高子の影響力を除くため、陽成天皇から光孝天皇への譲位を行います。光孝天皇は高齢でしたが、基経を関白にして政治をまかせました。

 

摂関政治03 藤原忠平.jpg

 

 

藤原忠平は朱雀天皇の摂政となり、朱雀天皇が成長すると関白になりました。この後、幼帝の摂政が帝の成長を待って関白になることが定例化して摂関政治のシステムは完成に近づきます。朱雀天皇・藤原忠平の時代は、王朝国家といわれる政治体制が出来上がり、承平天慶の乱が起こっています。

 

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藤原忠平の後、村上天皇親政の時期を経て、冷泉天皇・関白藤原実頼のときから摂政・関白が常置されるようになりました。969年、冷泉天皇から円融天皇への譲位があり、安和の変が起こって源高明が失脚しました。安和の変で藤原氏の他氏排斥事件は終わり、この後の天皇は村上天皇の后藤原安子の子孫に限定され、藤原氏なかでも藤原師輔の流れが摂政・関白に就くようになります。

 

摂関政治05 藤原道長.jpg

 

藤原兼家から藤原道隆・藤原道長の時期は、摂関政治の全盛期です。道隆は定子、道長は彰子を一条天皇に入内させて外戚=摂政関白の地位を争いました。この争いは道長が勝利し、彰子所生の敦成親王が三条天皇の皇太子になります。

道長の政治課題の一つは皇統の一本化でした。前世代で兄の冷泉天皇から弟の円融天皇に譲位されてから、冷泉系と円融系の両統迭立になっていたからです。道長は冷泉系の三条天皇、円融系の一条天皇の両方に娘を入内させていましたが、一条天皇の中宮彰子が産んだ敦成親王(後一条)が三条天皇の皇太子になると円融系への皇統一本化を推進しました。 

 

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1016年、彰子所生の後一条天皇が践祚しました。藤原道長は摂政になります。意外なことに道長は関白になったことはなく、後一条天皇の摂政も数年で頼通に譲っています。

1018年、道長は娘の威子を後一条天皇に入内させ、威子は中宮に立てられました。太皇太后の彰子、皇太后の妍子、中宮の威子と道長の娘たちは三后となり、道長は「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠みました。彰子と頼通は外戚を独占し、皇統を一本化するため、後一条天皇の后を威子一人にします。威子は内親王を二人産みましたが男子は生まれず、1036年、後一条天皇と威子が相次いで急死したため、皇太弟の後朱雀天皇が践祚しました。道長は後朱雀天皇に娘の禧子を入内させ、後冷泉天皇が生まれます。

摂関政治は娘を入内させて皇子が誕生し外戚となったうえで摂政・関白に就き政権を握るシステムです。ここには、まず娘が生まれ、続いて孫の皇子が生まれるという二重の偶然があります。道長は娘が多く、入内した娘たちから次々に皇位継承者が誕生しました。しかし、後冷泉天皇と頼通・教通の娘の間には皇位継承者になる皇子が誕生せず、摂関政治は動揺することになります。

摂関家の系図Ⅱに続きます

 

2021.10.28 Thursday