日本史オンライン講座

高校の社会科教師を退職して日本史を勉強しなおそうと思い、秦野裕介先生を講師に迎えて、日本史オンライン講座を作りました。木曜夜にZOOMでライブを発信し、週末に録画を公開しています。
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摂関家の系図Ⅱ

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後朱雀天皇が崩御すると後冷泉天皇が即位し、弟の尊仁親王(後三条)が皇太弟になりました。関白藤原頼通や藤原教通は後冷泉系統に皇統を一本化しようとしており、娘を後冷泉天皇に入内させて皇子誕生を待ちます。しかし、ついに皇子は誕生せず、後三条天皇が践祚しました。

後三条天皇には藤原能信の養女との間に生まれた皇子(白河)がいました。後三条天皇は白河天皇への譲位にあたり、白河天皇の弟実仁親王を皇太弟にします。しかし、後三条上皇が譲位後一年で崩御し、1079年に白河天皇の皇子善仁親王が誕生すると白河天皇はわが子への皇位継承を考えるようになりました。1085年、皇太弟の実仁親王が亡くなると白河天皇は善仁義親王(堀河)への譲位を強行します。

 

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白河上皇は我が子への皇位継承を実現すると、政治を堀河天皇に譲り、外戚の藤原師実が引き続き関白を務めました。堀河天皇が16才になった1094年、関白藤原師実は藤原師通に関白を譲ります。堀河天皇と関白藤原師通は相性が良く、二人は堀河親政を推進しました。ところが、1099年、関白師通は悪瘡で急死してしまい、堀河天皇は白河法皇に依存するようになります。師通の子藤原忠実はまだ若く、法皇は摂関家に対しても優位に立ちました。こうして、堀河親政は白河院政に変わっていきます。

 

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1107年、堀河天皇が崩御して 鳥羽天皇が践祚します。鳥羽天皇は白河法皇の孫で5才でしたから、政治は白河法皇が行いました。

幼帝鳥羽の母は藤原北家閑院流藤原公実の妹でした。藤原公実は摂政は外舅の自分がなるべきだと考えましたが、白河法皇は閑院流にはノウハウがないという理由で斥け、堀河天皇の関白であった藤原忠実を鳥羽天皇の摂政にします。これによって、外戚と摂関が分離するとともに、摂政関白は院が選任するようになります。この後、摂関は道長の子孫である御堂流に限定され、摂政・関白を出す家としての摂関家が成立しました。

1115年、鳥羽天皇の女御の問題が持ち上がります。白河法皇は藤原公実の娘璋子を養女にしていました。白河法皇は璋子を摂関家の嫡子藤原忠通に嫁がせ、摂関家の娘藤原泰子を鳥羽天皇に入内させることを提案します。しかし、藤原忠実は璋子の素行を理由にこの縁談を断りました。白河法皇は璋子を鳥羽天皇の女御にし、王家と摂関家の関係を深める機会が去りました。 

 

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1120年、藤原忠実は鳥羽天皇を通じて藤原泰子の入内工作を始めました。白河法皇はこれに怒り、忠実の内覧を停止します。それから、10年余り、忠実は宇治での謹慎生活を余儀なくされ、関白の位は忠実の嫡子藤原忠通が受け継ぎます。この間に、忠実に三男頼長が誕生しました。忠通には男子がいませんでしたから、忠実は頼長を忠通の養子にして摂関家の後継者にしようと考えます。

1129年、白河法皇が崩御して、鳥羽上皇・崇徳天皇による鳥羽院政が始まります。謹慎していた藤原忠実が政治的に復権し、関白忠通の影が薄くなりました。1143年、忠通に男子(基実)が誕生します。このとき、忠通47才、頼長24才でした。忠通は基実を後継者にしたいと思いました。忠実と頼長は忠通に反発、摂関家における忠通と忠実・頼長の対立が保元の乱の伏線になります。

保元の乱には、もう一つの伏線がありました。藤原忠通は娘の聖子を崇徳天皇に入内させていました。ところが、1140年、崇徳天皇と兵衛佐局の間に重仁親王が誕生します。これが、藤原忠通が保元の乱で崇徳院政の阻止に動く遠因になりました。ちなみに、重仁親王の乳母は平忠盛・藤原宗子夫婦でした。故に、保元の乱で平氏は難しい立場に置かれることになります。

1141年、鳥羽上皇は崇徳天皇から近衛天皇への譲位を行わせました。崇徳上皇は、将来重仁親王が即位し崇徳院政が実現することを期待して雌伏の期間に入りました。

鳥羽院政の時代は荘園が急増しました。この時期の荘園は、王家や摂関家など中央の権力が設立していく荘園で領域型荘園と呼ばれます。王家と摂関家は膨大な荘園を所有する大荘園領主になりました。

 

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藤原忠通と藤原頼長は、近衛天皇の外戚をめぐって争いました。忠通が呈子を入内させると頼長は多子を入内させて対抗します。

1150年、忠実は藤原氏の氏長者を頼長に譲ります。頼長は学問に優れて朝廷の改革に意欲を見せ、内覧の地位を得ました。こうして、頼長が摂関家を掌握し、関白忠通は追い込まれていきます。ところで、摂関家は源為義を武力として使っていましたが、河内源氏に為義と義朝が父子対立が起こります。忠通は義朝を武力として組織しようと考え、中宮呈子の雑仕女であった常盤御前を義朝の側室にしました。

1155年、近衛天皇が崩御します。重仁親王が次の天皇になれば崇徳上皇の院政につながります。しかし、鳥羽法皇・美福門院・関白藤原忠通は、守仁親王(二条天皇)を鳥羽王家の後継者に定め、つなぎとして守仁親王の父である後白河天皇が践祚しました。王家の嫡流の誇りを持つ崇徳上皇は反発し、鳥羽法皇の崩御とともに保元の乱が起こります。

保元の乱では、摂関家の武力である源為義が崇徳上皇方、忠通が影響下においた源義朝が後白河天皇方に分かれます。平氏は藤原宗子が重仁親王の乳母であるにもかかわらず後白河方を選び、平清盛・平頼盛が後白河方に加わります。保元の乱は戦力に優る後白河方が勝利しました。

保元の乱は摂関家に打撃を与えました。藤原忠通は摂関家の主導権を把握しますが、藤原頼長は生命を落としました。摂関家の所領は没収の危機にさらされますが、忠通は摂関家の所領の確保に成功します。しかし、頼長に相続されていた荘園は没収されてしまいました(後白河の長講堂領に)。また、摂関家の武力であった河内源氏が壊滅しました。忠通は摂関家の再建に取り組んでいきます。

 

 

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藤原忠通の次の世代は、治承寿永の内乱の時期にあたります。天皇は、後白河・二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽とめまぐるしく代わり、後白河が治天の座に就きます。一方、武家も平清盛・木曽義仲・源頼朝が覇権を争いました。忠通の子どもたちは、王家や武家と合従連衡を重ね、源頼朝の時期に嫡系の近衛家と傍系の九条家が生き残ります。鎌倉時代、近衛家から鷹司家、九条家から一条家と二条家が分かれ、五摂家が成立しました。この後、江戸幕府滅亡まで、忠通の子孫である五摂家が摂政・関白を独占し、朝廷で枢要な働きをしました。

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2021.09.26 Sunday